王政復古~廃藩置県

トップページ > 歴史系記事 > 王政復古~廃藩置県

新政府内の土佐

 新政府は明治元年3月14日、明治天皇がすべての神々に誓う形で政府の基本方針となる「五箇条の誓文」を発表しました。条文の起草には、土佐藩の福岡孝弟が参加しています。福岡は続いて政体書の起草にも関わっています。これは、アメリカ合衆国憲法などを参考に作られたもので、三権分立(行政・立法・司法の独立)など、国のあり方を示したものでした。
 そして翌年1月20日、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩によって領地と領民を天皇に返す、という意見書が朝廷に提出され、6月17日に認められました。これ以後、土佐藩の正式名称は高知藩となります。

全国に先駆けた四民平等

 明治3年(1870年)には進歩的な政策を打ち出していきます。江戸時代は身分制度があり、政治は武士が行うものでした。しかし、高知藩ではこの年の7月に、福岡の主導のもと、平民をも議員とした議会が開かれました。まだまだ試験的な試みで成功には至りませんでしたが、12月には全国に先駆けて「人民平均の理」(※注14)が宣言されました。全国から注目を集めたこの政策に対し、明治政府は全国へ導入するのは時期尚早と判断して、高知藩のみに実施を認めました。

注14 明治3年(1870年)11月3日、政府に提出された条文の第一条には、「士族(もと武士階級)だけが文武を修めるという常識を捨て、人はすべて平等だ」と定めており、画期的な条文でした。

廃藩置県

 明治4年になり、政府の依頼を受け、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允が来高し、板垣退助・福岡孝弟と高知で会議を行いました。会議では、東京警衛のため、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知の3藩から兵を出して御親兵(明治政府直属の軍隊)とすることが決まりました。明治政府はこの御親兵の確立を待って、廃藩置県を断行しました。これまでは、藩が一つの国のようなもので大名が治めていましたが、藩が廃止され、県という行政区分が確立したことによって、武士による政治が完全に終わりを告げました。
 幕末以来、土佐藩が果たした役割は大きく、その流れはさらに自由民権運動へと繋がっていきます。

PAGE TOP