らんまんの舞台・高知 牧野博士の新休日 Vol.1 Spring-Summer
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botanical collection【佐川時代】【青年期】【壮年期】【晩年】牧野博士ゆかりの植物コレクション11歳の頃、佐川の名教館で高度な教育を受けていたため、小学校の授業は退屈に感じていた度重なる計画の中止、研究に打ち込み続ける実家の家業倒産といった苦境にめげず、所帯を持ってからは家賃が払えず子どもが生まれ、家計は困窮の一途に。転居を繰り返すこと26回!生涯現役で研究に励んだ高知県内で観察できるすえ衛6[10~11月] ソナレノギク柏島[10~11月] ノジギク牧野植物園・物部川から西側の海岸[11~12月] ヤッコソウ金剛頂寺・最御崎寺・佐田山シイ保護林●1862(文久2)年 4月24日  土佐国高岡郡佐川村(現高知県高岡郡佐川町) に誕生酒造を営む裕福な商家の一人息子として生まれる。3歳で父、5歳で母を病気で亡くしてからは、祖母の浪子に育てられた。幼い頃は裏山で植物採集をして過ごしていた。●1876年/14歳 小学校を2年で自主退学。植物採集をして過ごす●1881年/19歳 内国勧業博覧会の見物と顕微鏡や書籍を購入するため、初めて上京。この頃自由民権運動に関わる●1884年/22歳 2度目の上京。東京大学理学部植物学教室への出入りが認められる。この年から1893年まで東京と高知を往復●1888年/26歳 壽●1889年/27歳 大久保三郎と国内で初めて新種「ヤマトグサ」に学名をつける 横倉山 でコオロギランを発見アカガシの原生林が残り珍しい植物が自生する横倉山は、博士にとっては絶好の研究のフィールドだった。横倉山で発見されたコオロギランやヨコグラノキなどが博士によって命名されている。●1890年/28歳 東京府小岩村(現江戸川区北小岩)でムジナモを発見●1899年/37歳 『新撰日本植物図説』刊行を始める●1900年/38歳 『大日本植物志』刊行を始める●1912年/50歳 東京帝国大学理科大学講師となる●1916年/54歳 家計困窮。神戸の資産家に資金援助を受ける●1928年/66歳 妻・壽衛永眠(54歳)         新種のササに「スエコザサ」と命名●1940年/78歳 『牧野日本植物図鑑』刊行●1956年/94歳 高知市五台山に牧野植物園の設立決定         佐川町名誉町民となる●1957年1月/94歳 永眠。没後、文化勲章が授与される90歳を過ぎても●1958年/没後1年  高知県立牧野植物園 が開園「植物園を造るなら五台山がええ」という生前の博士の一声で牧野植物園の場所が決定。竹林寺の宿坊跡地を譲り受け、現在の南園部分が開園。人物の名を冠した植物園は日本で唯一。[7~8月] ビロードムラサキ五台山・牧野植物園[9月] ヒメノボタンヒメノボタンの里(星ヶ丘公園)[10月] ジョウロウホトトギス牧野植物園・牧野公園・横倉山[6~7月] フクリンササユリ牧野公園・四国カルスト 天狗高原[6~12月] ハマアザミ室戸岬などの海岸[7月上旬~中旬] ムカデラン牧野植物園・牧野公園ジョウロウホトトギスの植物図(所蔵:高知県立牧野植物園)[1~2月] バイカオウレン牧野植物園・牧野公園・集落活動センター加茂の里[4~5月] トサノミツバツツジ香北の自然公園京都の筆師が作る根朱(ねじ)筆を愛用していた博士。長く、腰があるネズミの毛を使用していたHistory of Makino牧野博士の生涯から魅力を深掘り!と所帯をもつ。『日本植物志図篇』を自費出版詳しくは→P.11をcheck詳しくは→P.13をcheck詳しくは→P.7をcheck参考:『牧野富太郎の本』 企画発行:(公財)高知県牧野記念財団精巧な植物図はまるでボタニカルアートアート作品のような芸術性を併せもつ卓越した画力はもちろんのこと、観察眼と曖昧さを許さない博士のすごさが垣間見える植物図。単なる写生ではなく、植物の典型的な形態を捉え、花期や果実期といった各生長段階を緻密に描写している点が最大の特徴といわれている。05気になる!

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