ペリー来航から王政復古まで

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山内容堂の藩主就任

 土佐藩の初代藩主・山内一豊は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで功績を挙げ、徳川家から領地を大きく増やしてもらって、掛川(現在の静岡県)の領主から土佐の領主となりました。
 それから250年近く経った嘉永元年(1848年)、土佐藩主・山内家の分家に生まれた山内容堂は、突然、15代藩主となりました。実は先代の14代藩主は就任してから12日で急死してしまったのです。本来なら後継者不在を理由に土佐藩は取り潰されるところでした。しかし、徳川幕府から土佐藩の存続が認められました。
 この一豊の領地加増と、容堂の藩主就任における経緯があったため、山内家は徳川家に大きな恩義を感じていました。

吉田東洋の藩政改革

 藩主に就いた容堂は、分家の出身ということもあり、思うような藩の改革は出来ませんでした。それを一変させたのが、嘉永6年(1853年)のペリー来航です。開国を求めたアメリカ人のペリー来航は、日本中に大きな衝撃を与えました。
 それは鎖国か?開国か?という単純なことではなく、日本が独立国家として生き残ることが出来るのか?が問われる事態に直面したのです。
 すなわち、幕府と諸藩が一致団結して非常事態に対処できる国家の形成、その運営に必要な人材の登用と育成、欧米諸国の科学技術を導入した軍事力および生産力の向上という課題が突きつけられたのです。
 土佐藩の政治を司る吉田東洋は、容堂の全面的な支持のもとで、上の課題に取り組む様々な政策(※注1)を実行しました。しかし、彼の政策は、挫折してしまいます。尊王攘夷(※注2)を目指す武市半平太率いる土佐勤王党(※注3)が東洋を暗殺してしまったのです。

注1 東洋が取り組んだ政策は、
(1)階級制度改変、(2)法律の制定、(3)藩の学校の開設、(4)大砲製作、(5)対外貿易を始めるため藩士を長崎へ派遣。

注2 天皇を尊び、従来の通り外国人との交流を限定する考えのことです。この考えの人たちは、天皇を頂点とした独立国家を創ることを目指していました。

注3 文久元年(1861年)年8月、武市半平太をリーダーとして組織された政治団体。加盟者は、坂本龍馬、中岡慎太郎ら192名を数えました。彼らの身分は、下級武士が大半でした

土佐勤王党の登場と崩壊

 東洋の死後、藩の主導権は保守的な山内家一門や家老たちの門閥派と勤王党が握ることになりました。
 文久2年(1862年)、容堂のあとの藩主となった16代藩主豊範が江戸へ行く際、武市も同行し、尊王攘夷を目指した活動を行います。その一環として、朝廷の公卿と協力して、幕府に攘夷実行を促しました。
 しかし、容堂は武市ら下級武士が政治に関わることを嫌っており、勤王党の弾圧を開始します。
 翌年、京都で「八月一八日の政変」(※注4)が起こり、尊王攘夷運動が崩壊すると、土佐藩は、武市はじめ主立った勤王党員を捕縛しました。武市は牢に入れられ、1年9ヶ月後に切腹となりました。

注4 長州藩などの尊王攘夷派を京都から追放した事件。これにより、全国的に尊王攘夷派の人々が弾圧され始めました。

後藤象二郎らの富国強兵策

 勤王党弾圧後、容堂は新たな政治の方向性を探るため、家臣を西日本各地に派遣して情報収集させました。しかし、家臣たちから寄せられる情報には差異があり、状況がつかみきれませんでした。
 また、東洋の死後中断していた富国強兵策を後藤象二郎に命じて再開させます。その要として設立されたのが開成館(※注5)です。しかし、開成館事業は、庶民の生活を圧迫するもので(※注6)、藩内から多くの批判がありました。
 行きづまった土佐藩は次の展開を求められるようになります。

注5 慶応2年(1866年)2月、高知市九反田に開設。技術教育(航海技術・砲術など)と殖産事業(藩内で使える紙幣の発行や、長崎で土佐の産物を売ることなど)を展開しました。

注6 特産品をたくさん交易に回したことによる品不足、軍艦と武器の購入費調達のため藩札を乱発し、物価の高騰を招きました。

薩長同盟

 その頃、長州藩に対する処罰の内容(長州藩が拒否した場合は武力行使する)や欧米諸国による条約勅許要請(※注7)など、重要問題の解決をめぐって幕府は紛糾していました。
 薩摩藩は、諸大名が集まって協議する合議制国家の形成をはかります。しかし幕府と彼らに追従する朝廷内上層部にことごとく阻まれました。新たな方向性を見出せない幕府と朝廷に見切りをつけた薩摩藩は、新たな協力者を必要としていました。
 一方、禁門の変(※注8)で「朝廷の敵」となった長州藩は、幕府との全面戦争に備えて、中央政局に弁護人となってくれる勢力と西洋式の兵器購入を援助してくれる者を必要としていました。
 ここに薩長の立場を理解していた土佐藩出身の二人、中岡慎太郎と坂本龍馬が薩長の仲立ちをして、慶応2年(1866年)1月、薩長同盟が結ばれたのです。薩長同盟の内容は、長州藩の政治的復権を図るために、薩摩藩が全面的に協力することを約束したものです。

注7 日米修好通商条約を結んだ際、横浜・長崎・函館のほかに兵庫(今の神戸港)・新潟も貿易港とすることになっていました。しかし兵庫は京都に近いからという理由で慶応3年(1867年)まで保留となっていました。

注8 元治元年(1864年)7月19日、前年の八月一八日の政変で失った勢力回復をはかる長州藩と、これを防ぐ幕府軍が京都御所のまわりで激突した戦争。長州藩は、御所に向けて発砲したため「朝廷の敵」となり、孝明天皇は幕府に長州征伐を命じました。

大政奉還と王政復古

 行き詰まった土佐藩は、後藤象二郎が長崎で坂本龍馬と面会し、協力を求めます。後藤は坂本が提案した大政奉還(※注9)建白を実行するため京都へ向かい、土佐の寺村左膳・佐佐木高行(※注10)、薩摩の西郷隆盛・大久保利通(※注11)らに提案し、賛同してもらいます。
 こうして慶応3年(1867年)6月22日、中岡慎太郎と坂本龍馬立ち会いのもと、薩土盟約が結ばれました。その内容は、諸藩から幕府に政治の決定権を朝廷に返上するよう働きかける、もし拒否すれば武力行使で徳川幕府を打倒するというものでした。
 後藤象二郎と西郷隆盛たちだけでなく、世間の見方は、幕府は大政奉還を絶対拒否するだろうと見ていました。西郷はそこに注目し、幕府と戦う大義名分を得る手段と解釈しました。それゆえ土佐藩からも兵隊を出すこと、将軍職廃止を建白書に明記することが約束されました。
 後藤から大政奉還の提案を聞いた容堂は土佐藩論とすることを認めます。しかし、藩の兵を京都へ送ることは絶対に認めませんでした。さらに建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除したのです。これを知った西郷らは、9月7日、後藤に対して盟約の破棄を通告します。
 このような意見の違いが見られたものの、後藤らのねばり強い交渉と幕府への説得が実を結び、10月14日、将軍徳川慶喜は、天皇へ大政奉還を願い出ました。
 しかし、政治手腕にたけた慶喜が新政府に加わると、大きな政治変革を行うことができないため、あくまでも慶喜排除を図る西郷・大久保らは、岩倉具視ら王政復古派の公卿とともに、12月9日、王政復古のクーデター(※注12)を行います。ここに鎌倉幕府以来650年以上続いた武家政権は終わり、天皇の下での合議制による新政府が発足しました。
 その後開かれた小御所会議(※注13)に慶喜の姿は在りませんでした。容堂ら新政府の重職についた大名たちのほとんどは、慶喜の新政府参加を求めていました。しかし、クーデターの成果が水の泡となると強い危機感を抱いた薩摩藩は、武力行使による徳川家との全面戦争を決意しました。
 そして明治元年(1868年)1月3日、京都鳥羽で、薩摩藩兵が旧幕府軍へ放った一発の大砲によって、戦争が起こってしまいます。新政府軍と旧幕府軍の戦いは1年半続きました。

注9 将軍・徳川家が、政治を行う権利を天皇に返すことです。

注10 土佐藩の舵取りを任された重臣です。幕府による政治の限界を感じながらも、徳川家を救いたい土佐藩は行き詰まっていました。坂本の大政奉還の案は、幕府は無くなりますが、徳川家を救える可能性のあるもので、寺村や佐佐木は光を見出しました。

注11 薩摩藩の重臣で、この時期から明確に幕府を倒すことを考え始めた二人です。

注12 「王政復古の号令」とは、天皇が政治を司る政治体制を構築するものです。そのルーツを初代天皇の時代にまでさかのぼることで、これまでの政治体制を否定し、大きな変革が起こったことを強調しました。

注13 王政復古クーデター後京都御所で開かれた会議。この席で徳川慶喜の官位・領地返上が決定されました。これに異を唱える容堂は「一部の者が幼い天皇を抱き込んで意のままにしている」という意味の発言をし、岩倉具視にとがめられました。

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