観光案内所・観光協会検索Destination search
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1. 地球33番地東経33度33分33秒、北緯33度33分33秒という「3」が12個も並ぶ、世界でも珍しい場所「地球33番地」。33.56258 133.55666
緯度・経度の度、分、秒に同じ数字が12個並ぶ地点は21ヶ所あるが、陸上にあるのは世界にわずか9ヶ所であり、市街地にあるのは地球33番地のみ。高知市を東流する「江ノ口川」の中にシンボルがたっている。南岸の弥生町には白いモニュメントもある。 -
2. 美空ひばり遺影碑・歌碑杉の大スギのすぐそばに故美空ひばりさんの遺影碑・歌碑があります。この遺影碑・歌碑は美空ひばりさんゆかりの地として、平成5年5月にファンやプロダクション、レコード会社など数多くの関係者の全面的なご協力を得て建立されました。遺影碑からはボタンスイッチで「川の流れのように」「龍馬残影」「悲しき口笛」の3曲が流れてきます。33.755615 133.66292
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3. 無人島長平の碑高知県香南市香我美町岸本出身の野村長平(1762-1821)は、天明5年(1785年)、米の運搬中に遭難し、絶海の孤島・鳥島で13年間を生き抜いた人物です。「無人島長平」「東洋のロビンソン・クルーソー」として知られています。33.5393 133.73694
冬の大西風に遭い、黒潮に乗って12日後に鳥島へ漂着。仲間は全員死亡し、単独生活を開始。アホウドリの肉と卵を食料に、卵の殻に雨水を溜めて生き延びました。
3年後、大坂と日向国からの漂流者が合流し、最大18名のコミュニティを形成。救助を諦めた一行は自力脱出を決意し、流木や漂着船の部材で9mの船を建造。岩盤を削って道を開き、船を海へ下ろすことに成功しました。
寛政9年(1797年)6月、14名全員で鳥島を脱出。長平は後の漂流 ... -
4. 山内容堂公誕生之地 碑父は11代藩主の弟で、容堂は側室の子として生まれた。本家の藩主が急死したため15代藩主の座に就き、その政治手腕により薩摩の島津斉彬らと幕末の四賢候と評された。慶応3年(1867年)に将軍慶喜に大政奉還を建白。酒と詩を愛し、自らを「鯨海酔候」と称した。33.560963 133.5346
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5. 元親飛翔之像長宗我部元親の居城跡・岡豊山にある高知県立歴史民俗資料館のメインシンボルとして、平成27年5月に施設前に建立されました。戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名として、元親は土佐を統一した後、織田信長・豊臣秀吉といった天下人に翻弄されながらも、四国大部分の統一を成し遂げました。33.59576 133.62302
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6. 山内浩像龍河洞鍾乳洞入り口の階段手前に建っているのは、神秘的な龍河洞に関心を持ち、洞内探検に果敢に挑んだ山内浩の銅像である。日本の洞穴学とケービングの元祖である山内は、高知県の教員として在職中の昭和6年、千変万化をきわめ延々4kmに及ぶ前人未踏の奥洞である龍河洞を発見した。33.60321 133.74524
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7. 坂本龍馬像(シェイクハンド)龍馬記念館前に立つ、右手を差し出した坂本龍馬の銅像。犬猿の敵対関係にあった坂本龍馬と後藤象二郎が大政奉還を前にすべての怨念を捨て、人々の幸せのために握手したと言われているが、そこからシェイクハンド龍馬像の発想が生まれた。「シェイクハンド=握手」は、身分に関係なく同じ志を持つ者が協力することで平和で平等な国づくりを目指した龍馬の精神を現わしている。33.496555 133.57187
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8. 水原秋桜子句碑地元俳人・田村吾亀等らが発起し土佐清水市等が協力して建立。32.725407 133.02068
昭和38年10月下旬に、同人誌「馬酔木」の同人数名と足摺岬を訪れた時の句です。
「岩は皆渦潮しろし十三夜」 -
9. 吉田茂像太平洋戦争後の混乱期に閣総理大臣を務めた(5期・2,679日)政治家です。新憲法制定をはじめ、戦後日本の政治・経済・外交の基礎を作り上げました。33.547276 133.67485
鼻眼鏡に葉巻、白足袋といった風采、時に物議を醸す発言など、個性豊かなイメージで知られます。
この銅像は当初、高知空港の南東にある「緑の広場」に建てられましたが、その後、高知龍馬空港のターミナルビル近くに移設されました。 -
10. 塩見俊二像(塩見文庫)高知県選出の参議院議員として24年間に亘って活躍した塩見俊二は、知識を尊び読書を愛した人物である。塩見が私費で開設した「塩見文庫」(現・高知県立塩見記念青少年プラザ)の建物の前庭に、彼の功績を讃え、銅像が建立されている。銅像としては珍しく、椅子に深く腰を下ろしてくつろいだ形である。その手にある本には「愛をもちて理想を成す」と刻まれている。33.563576 133.527
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11. 長宗我部元親像 初陣の像長宗我部氏は岡豊城(現在の高知県南国市)を拠点とし、元親は1539(天文8)年に生まれました。少年時代は「姫若子」(ひめわこ)と呼ばれるほどおとなしかったと伝わっていますが、1560(永禄3)年5月の初陣で目覚ましい活躍をして勝利しました。33.493065 133.54628
直後に父・国親が死去した後を継いだ元親は戦い続け、土佐を統一し、その後1585(天正13)年に四国の大部分を制覇しました。
銅像は、初陣前夜に元親が陣を敷いた若宮八幡宮に、その姿を再現するものとして建てられました。2024年は銅像建立25周年となります。 -
12. 寺田寅彦記念館物理学者で随筆家としても知られる寺田寅彦(てらだとらひこ、1878〜1935年)が幼年時代を過ごした邸宅を保存公開しています。33.563427 133.52849
第二次大戦の空襲で焼かれ旧寺田邸もはなれの勉強部屋を除いて焼失したのですが、「復元する会」により茶室と主屋が再建され、昭和59年、記念館として公開されました。
「天災は忘れた頃にやってくる」という有名な言葉を最初に唱えたのが寺田寅彦で、
第五高等学校(現・熊本大学)で夏目漱石(なつめそうせき)に英語を習い、生涯親交を持ちました。小説『吾輩は猫である』に登場する「水島寒月(かんげつ)」は、寺田寅彦がモデルと言われています。
記念館の入り口の左側にある「寺田寅彦先生邸址」碑は牧野 ... -
13. 箸拳発祥の地嘉永2年(1849)の頃、宿毛の船宿である大黒屋丑松方に宿泊した九州の船頭によって薩摩拳が伝えられ、それが箸拳となって、やがて高知方面へ普及した。0.0 0.0
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14. 中岡慎太郎像中岡慎太郎は土佐藩出身の幕末の志士の一人で、陸援隊の隊長として、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍しました。1867(慶応3)年11月15日京都河原町の近江屋で龍馬と過ごしていたところを刺客に襲われ、ともに命を落としました(享年30歳)。33.245735 134.17624
銅像は昭和10年、安芸郡青年団が主体となって建てたもので、本山白雲が作りました。
桂浜の坂本龍馬像や、高知城にある山内一豊像も本山白雲によるものです。 -
15. 野村茂久馬像日露戦役には戦時輸送など、陸海に事業を拡げ、後に土佐の交通王とよばれた野村茂久馬の銅像が、丸の内緑地公園の東北角に佇む。安芸郡奈半利村に生まれた茂久馬は、高知県交通バスの前身である野村組自動車部、そして新高知重工業の前身である野村組工作所の創設者となり、四国のバス事業の統合、高知鉄道、土佐商船などの設立に力をつくした。33.559856 133.53336
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16. 岩崎弥太郎の銅像岩崎弥太郎の銅像は、三菱グループの創設者であるの彼の生家近くに海に背を向け、山を向いて立っているのが特徴です。33.526184 133.90076
幕末から明治にかけて活躍し、日本の近代化に大きく貢献しました。そんな彼の故郷に対する深い思いと、故郷安芸から世界に羽ばたいた偉大な功績を称えるために、この銅像が建立されました。 -
17. 島村衛吉の碑と墓島村衛吉は天保5年(1834年)に郷士の家に生まれました。文久元年(1861年)土佐勤王党結成に加わり幹部として活躍しましたが、吉田東洋暗殺の疑いで武市半平太と共に投獄されました。33.53449 133.6727
拷問にも耐えて語ることなく、元治2年(1865年)獄中で命を落としました。
南国市下島浜にある「贈従四位 島村衛吉先生之碑」は三島村下島部落青年団が建立したもので、元は三島神社にあったと言われています。昭和43年に墓があるこの地に移され、墓所の東端に衛吉の墓がひっそりと建っている。 -
18. 牧野富太郎像牧野富太郎は幕末の土佐藩(現在の高知県佐川町)に生まれ、日本の植物分類学を独力で切り拓いて第一人者にまでなりました。幼少から植物に親しみ、小学校を中退してから95年の生涯を終えるまで、独学による植物研究に人生を捧げました。日本全国で採集調査を行い、植物標本40万枚、命名した植物は2,500余、蔵書は45,000冊に達しました。33.54727 133.5792
その業績を顕彰して、博士逝去の翌年、高知市の五台山に開園した植物園内に銅像が建てられました。
2023(令和5)年には牧野富太郎をモデルにしたドラマ『らんまん』(NHK連続テレビ小説)が放送されました。 -
19. 野中兼山邸の碑高知城追手門の東側、堀の前に石碑がある。33.561558 133.53326
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20. 万次郎少年像大波を背後にした中濱萬次郎少年と仲間たちの群像(鉄筋コンクリート製)です。漁に出た船が足摺岬の沖合で突然の強風に襲われ、漂着した南海の孤島 鳥島で米国の捕鯨船に救助を求めている様子です。143日間の無人島生活に耐え抜いた5人が描かれています。その後、少年だった萬次郎はアメリカで成長し、幕末維新の日本に大きく貢献することになります。32.78315 132.93242
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21. 後藤象二郎誕生地の碑1838年(天保9年)に象二郎はこの地で生まれた。生家は馬廻150石の上士。義理の叔父吉田東洋の死後、その志を継いで土佐藩の近代化につとめ、長崎では勤王党の坂本龍馬と手を握り、山内容堂に説いて大政奉還を実現。維新以後は民権運動にも関係した。33.55646 133.53723
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22. 南国土佐を後にしての歌碑歌手・ペギー葉山さんが歌い1959年に大ヒットした『南国土佐を後にして』は、太平洋戦争の時代に郷土出身の鯨部隊(旧日本陸軍第40師団歩兵第236連隊)が遠く離れた戦地でふるさとを偲んで歌った歌が原曲。はりまや橋公園東側に,平成24年建てられた歌碑には歌詞が刻まれ、午前8時半から午後8時半まで1時間おきに歌声が流れ、そばに建てられた親子鯨が曲に合わせて潮を吹く仕掛けとなっている。33.559875 133.54317
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23. お龍・君枝の銅像高知県芸西村の琴ヶ浜松原に、坂本龍馬の妻「お龍(おりょう)」と妹「君枝」の姉妹像があります。33.51737 133.8033
君枝は海援隊士・菅野覚兵衛と結婚し、この地で暮らしていました。慶応3年(1867年)に龍馬が暗殺された後、お龍は妹が嫁いだ芸西村で一時期を過ごしたと伝えられています。
この像は姉妹の絆とともに、龍馬や覚兵衛を記念する目的で芸西村が建立したもので、琴ヶ浜松原野外劇場の西側にあります。高さ1.7メートルの銅像は、岩崎弥太郎像(安芸市)や維新の門(梼原町)を手がけた著名彫刻家・浜田浩造氏の作品。この姉妹は桂浜にある坂本龍馬像に向かって手をふっている。 -
24. 田宮虎彦「足摺岬」文学碑足摺岬の椿のトンネルを抜けると、白亜の灯台の近くに、田宮虎彦の名作『足摺岬』を記念した「砕け散る荒波の飛沫が崖肌の巨巌いちめんに雨のように降りそそいでいた」と刻記した石碑が立てられている。32.72407 133.02028
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25. 山内一豊の像山内一豊は土佐藩の初代藩主となった戦国武将です。33.56104 133.53352
戦国時代の尾張藩(現在の愛知県)で生まれ、織田信長、豊臣秀吉と仕えた後に、関ケ原の戦での功から土佐国(現在の高知県)を徳川家康から拝領しました。
その生涯が司馬遼太郎の小説『功名が辻』(こうみょうがつじ)で描かれ、NHK大河ドラマにもなりました(2006年)。
銅像は、坂本龍馬像(桂浜)や中岡慎太郎像(室戸岬)を作った本山白雲によるものです。 -
26. 義堂・絶海の像室町期、五山文学の双璧とうたわれた高僧。33.438644 133.08612
共に津野町出身で、夢窓疎石に師事している。
義堂は関東管領足利基氏や将軍足利義満の信頼も篤く、政治顧問・文学者として大いに活躍している。
絶海も鎌倉や京都の名刹で修行に励み、1368年より8年間、明に留学している。
その際には太祖高皇帝(洪武帝)と直接詩のやりとりもしている。
帰国後も、義満の信頼を集めて相国寺の従持や大内義弘反乱の説得などに活躍している。 -
27. 維新の門(群像)1862(文久2)年の春、坂本龍馬は盟友・澤村惣之丞(さわむらそうのじょう)とともに梼原町の韮ヶ峠(にらがとうげ)を越えて脱藩、幕末の日本を駆け抜けた龍馬の活躍は始まりました。33.3912 132.92416
那須信吾・俊平父子ら梼原町にゆかりのある六志士に、龍馬と惣之丞をあわせた8人の銅像が建てられ、「維新の門」と名付けられました。
明治維新の1868年、この8人の志士たちは皆壮絶な死を遂げていました。 -
28. 皇太子殿下御歌(歌碑)当時の皇太子殿下(平成天皇)が昭和51年7月27・28日と自然公園大会で土佐清水市の足摺岬に立ち寄られたあと、昭和52年の歌会始の時に読まれた歌を記念して、歌碑として建立されました。32.727 133.0212
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29. 田中光顕屋敷跡の碑佐川町から東へ国道33号線を15分あまり歩いた山の手にある、佐川勤王の中心人物である田中光顕・大橋慎三・山中安敬らの屋敷跡の立つ碑。周囲は公園化している。33.5014 133.29987
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30. 弘田龍太郎歌碑安芸市を訪れた人が、安芸市自慢の風物に触れられるように市内10ヶ所に曲碑が建立されています。そのうち7ヶ所には音声センサーがあり、童謡を聞くことができます。0.0 0.0
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31. 野中兼山像江戸時代、初期の土佐藩で奉行として30年に渡り活躍した人物です。祖母は初代藩主・山内一豊の妹・合(ごう)でした。33.758533 133.59479
藩政改革の命を受けて、堤防建設、新田開発、港の建築を行い、能力次第で下級武士を登用する等、大きな功績を上げました。
しかし、厳しすぎる姿勢が領民や上級武士の反感を買うなどして失脚、兼山の死後は野中家はお取り潰しとなりました。
生き残った娘・婉(えん)の生涯を、高知県出身の作家・大原富江が小説『婉という女』で描き、毎日出版文化賞と野間文芸賞を受賞しています。 -
32. 村田忠三郎頌徳碑吉川町出身の郷士で幕末の志士。土佐勤王党に加盟し、江戸で山内容堂の側役を勤めたが、勤王党弾圧で下獄、斬罪された。33.546276 133.71077
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33. 脱藩志士集合之地碑国道33号線に佐川から越知へ通じる赤土トンネルがある。その入口から山道を登ればすぐの所に「脱藩志士集合之地」の碑がある。文字は、佐川領主13代深尾隆太郎の筆。元治元年(1864年)8月14日、死を賭してここに集まった同志は、浜田辰弥(田中光顕)、井原広輔、池大六(山中安敬)、那須盛馬(片岡利和)、橋本鉄猪(大橋慎三)の5人だった。「真心のあかつち坂にまちあわせいきてかへらぬ誓なしてき 田中光顕」33.516476 133.26315
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34. 中江兆民誕生の地の碑中江兆民(1847–1901)は、高知で生まれた思想家で、明治時代の自由民権運動を理論的に支えた重要人物です。その生まれ故郷が、ここ高知市にあります。33.56328 133.54662
土佐藩士の家に生まれた兆民は、若くして長崎や江戸でフランス学を学び、明治4年にはフランスに留学。帰国後は仏学塾を開き、民権思想を日本に広める活動に尽力しました。
明治14年には新聞『東洋自由新聞』を創刊し、自由と平等を重んじるフランス流の政治思想を広め、やがて“東洋のルソー”とも呼ばれるようになります。
その後も政界に進出し、初の衆議院議員選挙で当選しますが、理想と現実のギャップに失望し、まもなく辞職。晩年まで翻訳や執筆活動を続け、代表作にルソーの『民約 ... -
35. 板垣退助誕生地の碑自由民権運動で活躍した板垣退助の生誕地に建つ碑。33.558113 133.53705
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36. 龍馬郵便局郵便局入口前には大きな龍馬像が立ち、ポストの上には龍馬と一緒に「地球」と「桂浜の波」の像がのっている。局内には龍馬関連の資料が展示され、この郵便局から郵便物を発送すると、生誕の地と龍馬の図柄が入った消印を押してもらえる。33.556187 133.52596
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37. 牧野富太郎生誕地の碑司牡丹の酒造や数多くの古民家が残る上町地区の一角に生誕碑がある。33.499023 133.28665
牧野富太郎はここで、酒造業「岸屋」のひとり息子として生れた。 -
38. 中濱萬次郎翁記念碑正五位が贈られた記念に出生地である土佐清水市に建てられた中濱萬次郎記念碑。米ひきの失敗を咎められて飛び出した先で、漁師になるきっかけとなる出会いがあったというエピソードから手前には石臼が置かれています。日本人として初めてアメリカに渡り、西洋の知識や情報を持ち帰った萬次郎は、当時の日本に多大な功績を残しました。32.75794 132.96417
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39. 武市半平太(瑞山)像幕末の土佐藩で、土佐勤王党を組織した武市半平太の銅像。瑞山(ずいざん)は号です。33.407333 133.38802
太平洋を見渡しながら東西19kmほど続く絶景ドライブコース「横浪黒潮ライン」の中ほどに銅像があります。
銅像の裏側には「土佐勤王党血盟者と同志人名」を刻んだ石版があり、坂本龍馬たちの名前が載っています。
武市瑞山の銅像は1979(昭和54)年に建立されましたが、今あるのは1985(昭和60)年に再建された2代目の銅像です。高さは初代の6メートルから2代目は3メートルほどになりました。制作者は原寛山(はらかんざん)。
初代銅像が持っていた刀が高知市仁井田の武市半平太旧宅近くの瑞山神社に展示されています。 -
40. 林有造像逓信大臣、農商務大臣となる一方、終始、故郷の宿毛発展に尽した政治家・林有造の徳を称え、建設された銅像。初代の高知県知事で、板垣退助の片腕として中央政界でも波乱の生活を送った有造は、片岡健吉らと立志社を創設し、自由民権運動に参加。宿毛に帰ってからは、新田築造などの宿毛発展策を推進した。32.9247 132.70227
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41. 坂本龍馬生誕の地の碑日本の夜明け、幕末に海援隊長をつとめ、薩長同盟、大政奉還の立役者となった、坂本龍馬の生誕地に建つ碑。33.557087 133.52586
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42. 坂本龍馬像近代日本の道を大きく開いた幕末の志士坂本龍馬像が太平洋に向かって立っている。33.498665 133.5755
昭和のはじめ、本県の青年有志の募金活動によって建設された。本山白雲の作。 -
43. 板垣退助像自由民権運動で知られる板垣退助は1837(天保8)年に土佐藩中島町(現在の高知市本町)に生まれました。33.5608 133.53255
戊辰戦争の功績で土佐藩家老格に出世、明治新政府では参議となり、自由民権運動や、政界引退後は社会改良運動に尽くしました。 -
44. 山内容堂像「幕末の四賢侯」に数えられる土佐藩主・山内容堂の銅像は、山内家の藩主を代々祀った山内神社境内にあります。最後の将軍・徳川慶喜に大政奉還を進言した容堂が、歴史的な大偉業の実現を慶んで、ギヤマンの杯を片手にあぐらをかいている様子を再現しています。酒と詩歌におぼれる悠々自適な生活を好んだ人物として知られる容堂を偲んだ座像です。33.55545 133.53185
※ギヤマン…江戸時代から明治初期に使われていた外来語で、ガラス製品を指します -
45. 岡本弥太の詩碑香我美町出身の詩人岡本弥太の詩碑。詩碑には「白牡丹図」が刻まれている。33.538925 133.74405
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46. 山内一豊の妻の銅像土佐藩の初代藩主山内一豊の妻・千代は夫の出世を支えたエピソードが有名です。33.56108 133.53249
豊臣秀吉に仕えていた時期に、高額の駿馬を買えずにいる一豊に嫁入りの持参金十両を差し出します。
織田信長が行った「馬揃え」(軍馬を集めてその優劣などを検分すること)の時に、一豊の立派な馬が信長の目を引き、一目置かれるようになりました。
関ヶ原の戦いの時も、石田三成から西軍への加勢を促す書状が一豊に届きますが、千代は「未開封のまま家康に渡すように」と助言しました。その通りに一豊は家康に届けたことで、「一豊は二心が無い」と家康からの信頼を得たと言われています。 -
47. 中浜万次郎の銅像日本の国際化に尽力したジョン万次郎こと中浜万次郎の銅像は足摺岬に立っています。32.72564 133.01958
中浜万次郎は土佐藩中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の出身。1841(天保12)年、14歳の時に乗り込んだ漁船が難破、無人島(伊豆諸島の鳥島)に漂着、143日間を生き抜き、偶然立ち寄ったアメリカの捕鯨船に救われ、アメリカに渡ることになりました。アメリカでの暮らしを通して英語や航海術等を学び、1851(嘉永4)年、日本(薩摩藩)に帰り着きます。ペリー来航で国中が揺れる中、万次郎の知識と能力は薩摩藩、土佐藩、江戸幕府などで重宝されました。 -
48. 吉村虎太郎の銅像吉村虎太郎は1837(天保8)年に津野山郷芳生野の庄屋に生まれました。24歳のときに土佐勤王党に加盟し、勤王の志に燃えて二度の脱藩を経て天誅組を組織し、総裁をつとめました。文久三年、大和(奈良県)で兵を挙げ五条代官を討ち取った後、追討軍と転戦、奈良十津川から吉野山へと至り、1863(文久3)年、27歳の若さで討ち死にしました。大政奉還まで4年、天誅組の行動は明治維新のさきがけとなりました。33.394226 133.02528
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49. 木造金剛力士立像高知県に伝わる谷地仁王門の金剛力士像は、かつて谷地の法華寺(廃寺)に安置されていた仏教彫刻です。阿形像が約204cm、吽形像が200cmの堂々たる像高を誇り、ヒノキの寄木造、彫眼の彩色像として制作されました。33.49092 133.32965
力強さと優美さが共存する地方彫刻の秀作
肉身部を朱色、裳を黒色で彩色したこの像は、全体的にバランスが良く、特に顔面と上半身は力強い表現に満ちています。ただし下半身はやや上体との均衡を欠き、指の表現も五本とも同形同大で変化に乏しいことから、未完成とも言われています。
それでも地方の金剛力士像としては秀作と評価されており、制作時期は室町時代かやや後の時代と推定されています。中央の様式を取り入れながらも、地方... -
50. 改良土佐節発祥の地の碑天正時代(1573~1591年)現在の土佐市宇佐の亀蔵が紀州から漂着した漁民から鰹節の製法を習得したのが土佐の鰹節の発祥といわれ、それを記念した石碑。33.4496 133.45546
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51. 中岡慎太郎像(北川村)脱藩を決意し北川村を後に旅立つ慎太郎の姿を表しています。33.45678 134.05692
室戸岬にある中岡慎太郎像とは趣が異なり、躍動感とエネルギーに満ちた印象的な姿です。
1999(平成11)年に生誕160年を記念して全国からの募金によって建立されました。
この石碑の中には建立記念誌、北川小・中学校の文集がタイムカプセルとして埋蔵され、生誕200年(2038)の年に取り出されることになっています。 -
52. 安政地震・津波の碑宝永4年(1707)の宝永地震、安政元年(1854)の安政地震に伴う津波の犠牲者追善と、その被害の教訓を後世に伝えるため、安政5年(1858)に地元有志によって、津波の汐先に近く四国遍路の通路であるこの地に建てられたものである。碑の本体は、直径約32cm、高さ約66cmの砂岩の円柱で、前面に「南無阿弥陀佛」と大書し、残りの全面には当時の状況と教訓が詳細に刻まれている。33.45556 133.43805
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53. 濱口雄幸像高知生まれの政治家で、第27代の内閣総理大臣 濱口雄幸の銅像が五台山公園に建立されています。33.54754 133.5744
風貌と篤実な人柄から〈ライオン宰相〉と呼ばれていました。
「政治は物質面だけではなく、国民の精神も豊かにするのが任務。そのためには政治家が袖を正さなければならない」と語り、大蔵大臣、内務大臣、内閣総理大臣、立憲民政党総裁などを歴任しました。 -
54. 廣井勇像(広井勇)日本初のコンクリート製外洋防波堤を建設した、日本近代土木工学の第一人者です。33.49886 133.28806
幕末に土佐藩(現在の高知県)の佐川町に生まれ、植物学者・牧野富太郎とともに、藩校「名教館(めいこうかん)」で学びました。
明治維新前後の混乱に苦労して学び、札幌農学校北海道で学んだ後にアメリカやドイツに留学、河川や橋梁の工事に従事しました。帰国して間もなく小樽港の建設に携わり、北防波堤を建設しました。当時はお雇い欧米人でも成功が難しい土木事業でしたが、廣井勇の作った防波堤は100年経った今も壊れることなく当時のまま使われており、2000年には公益社団法人土木学会から「土木学会選奨土木遺産」に選ばれました。
その後、東京帝国大 ... -
55. 片岡健吉銅像日本の自由民権運動において中心的な役割を果たした政治家で、高知県議会議長や衆議院議長も務めました。33.55964 133.53204
銅像の作者は、坂本龍馬像などを作成した本山白雲。台字は吉田茂書。 -
56. 仮谷忠男像高知県土佐清水市以布利出身の政治家・刈谷忠男は、三木内閣の建設大臣に就任した後、本四連絡橋架設、激じん災害対策緊急整備事業の制度化などに尽力しました。その激務に志半ばで倒れた彼を偲び、ゆかりの人達の声掛けによって県内外に寄付を募り、銅像が完成しました。鹿島公園から、右手を胸前に掲げて清水港沖の海を見渡しています。32.777702 132.96046
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57. 植木枝盛誕生の地の碑高知市中須賀のかつての生家跡近くに建立された植木枝盛誕生の地の碑は、自由民権運動を先導した思想家・植木枝盛の足跡を伝えます。33.558716 133.51343
安政4年(1857年)生まれの植木枝盛が構想した『東洋大日本国国憲按』は、最も民主的、急進的な憲法草案であった。「自由は土佐の山間より出づ」は枝盛の残した言葉として有名です。
生誕100年にあたる昭和32年(1957年)に市民の浄財で建立され、令和3年(2021年)に現在地へ移設されました。高知観光で自由民権運動の歴史に触れられます。 -
58. 奈半利川捨石の記念碑寛政12年(1800年)前年からの出水で、奈半利の田畑が土砂で埋まったため、護岸用捨石1~5トンを約500個入れている。又その後の次と行なわれ、明治40年(1907年)、120個の捨石を投入した刻字がある。33.437714 134.02762
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59. 佐竹音次郎夢の碑音次郎が鎌倉保育園を設立した直後、病気療養のため長期帰省した前後に、音次郎の兄によって建立されたと推測される石碑。ただ一文字「夢」とだけ刻まれている。未だ詳細が分かっていない、音次郎にまつわる歴史ミステリーの一つ。32.969162 132.97153
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60. 吉井勇歌碑(宿毛市)「沖の島なつかしければ荒海をものかはとこす旅人われは」 歌人・吉井勇が沖の島を訪れた際、詠んだ歌が記されている。昭和8年10月9日に来島、旅館に宿泊し、翌10日に離島。昭和57年3月建立。32.739014 132.54822
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61. 野勢達太郎生誕地碑幼少時から英才の聞こえが高く、12歳のとき田野学館に入る。15歳で高知へ出て藩校教授館に入り、さらに武市半平太の道場に入門した。江戸へ遊学し、佐藤一斎・安積艮斎に学んだ。文久3年(1863年)入京し、名和宗助と変名した。また北添佶磨らと蝦夷地などを視察。禁門の変では長州藩の忠勇隊に属して戦うが敗北、真木和泉ら16人の同士と共に自刃した。享年23。33.427456 134.01749
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62. 中平善之進像両手を広げて仁王立ちになり、はやりたつ民衆を押し止める庄屋・中平善之進の銅像。宝暦の時代、藩の制度により窮乏した津野山の農民達を救おうとし、打首の刑に処せられた善之進の遺徳を偲んでつくられた。国道を挟んで対する位置には、善之進の霊を祭った風神鎮塚が建てられている。33.392082 132.97795
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63. 紀貫之の歌碑室戸阿南海岸国定公園の西入口に立つ。33.3714 134.03877
古今和歌集の編纂者で土佐日記の著者としても有名な歌碑。 -
64. 佐竹音次郎辞世の句碑竹島集会所にある音次郎辞世の句が刻まれた石碑。句に詠まれている老松のそばに建立されたが、奇しくも音次郎命日の前日に焼失したという。32.968933 132.97557
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65. 新之丞の碑新之丞は、藩政時代初期に伊予より現在のいの町成山に移り住み、安芸家友に製紙技術を伝えた。33.570423 133.407
その後、この地区を出ようとして、技術が他国に伝わるのを恐れた家友に殺害されたと伝えられている。
いの町成山の仏が峠に、この新之丞を弔う記念碑が建てられている。 -
66. 林譲治像自由民権運動家としても活躍した明治・大正期の政治家・林有造の次男。汚職に満ちた環境にありながらも、節義を曲げなかった譲治を敬愛する人びとによって、郷里の地に銅像が建てられた。戦後、吉田内閣で内閣書記官長に就任し、外交官出身で内政や党務に弱い吉田を、大野伴睦(自由党幹事長)とともに補佐。実父が宿毛市出身の吉田と、同市出身の林の組み合わせから、世間からは「宿毛内閣」と呼ばれた。32.93904 132.72575
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67. 「兼山遺族幽閉の地」の碑32.93944 132.72803
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68. 長谷江児詩碑明治40年土佐に生まれた詩人、長谷江児の詩碑。大阪から帰郷した後、地元の青年団活動のかたわら詩作に励んだ。昭和34年12月13日建立。33.275146 133.24297
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69. 川村与惣太の歌碑金剛頂寺の別当職を辞した後、土佐一国を巡り地名、故事を詠んだ「土佐一覧記」を著した川村与惣太の歌碑。33.289425 134.15175
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70. 野村茂久馬翁の頌徳碑高知県の海運・陸運の発展に貢献し、土佐の交通王と呼ばれた実業家・野村茂久馬翁の頌徳碑。生まれ故郷である奈半利の田園を見渡す多気ヶ丘公園にある。33.4332 134.0294
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71. 佐竹音次郎生家・碑身寄りのない子どもたちの救済に奔走し、児童福祉に生涯を捧げた福祉事業家・佐竹音次郎の生家。敷地内には音次郎の死後、その功績を称える碑が建立されている。※現在も使用されている個人宅につき、訪問する際は事前に問い合わせ先へ要連絡。32.971268 132.97186
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72. 高浜年尾句碑父虚子の跡を継ぎ文芸誌「ホトトギス」を主宰した年尾が、句友に招かれて足摺恒例の椿祭りに参じた時(昭和50年)の句。「足摺にはじまる土佐の春かとも」 昭和51年土佐清水市建立。32.725334 133.02095
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73. 一条教房御歌(歌碑)南海大地震で隆起したことで知られる天然記念物「唐船島」に建っています。32.776287 132.9678
「土佐のうみ 南のきしに 船とめて 猶やさかえん きたの藤浪」 -
74. 小野梓記念公園小野梓は16歳で戊辰戦争に参加。大隈重信と東京専門学校(現早稲田大学)を設立した。公園内には小松製作所創始者竹内明太郎、冨山房創始者坂本嘉治馬とともに胸像が建立されている。32.93701 132.72887
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75. 昭和天皇の歌碑(山田邸の庭園)昭和25年、昭和天皇陛下が山田家にお泊まりの際、詠まれた歌の碑。33.26049 134.16849
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76. 土御門上皇仙跡碑1221(承久3)年、承久の乱で土佐国幡多へ流された土御門上皇が、土佐から阿波へ遷る途中、ここで名月を眺めて都をしのんだという伝承から月見山の名が生まれ、これを記念して立つ碑。「鏡野やたが偽りの名のみにて恋ゆる都の影もうつらず」(「土御門院御集」)33.539173 133.7443
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77. 野口雨情の詩碑数多くの名作を残し、童謡界の三大詩人と謳われた野口雨情が叶崎を詠んだ、「叶崎で 波の音聞いた 波が碆打つ音聞いた」という詩が刻まれている。32.748547 132.8019
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78. 塩見俊二像(土佐市民公園)政治への強い使命感と、尽きることのない教育に託した情熱をもって理想を追求し続けた塩見俊二。彼の遺跡を後世に伝えるため、土佐市公園内に銅像が建立されている。元参議院議員であった塩見は、私財の全てを投じて塩見文庫を創設。6万7千冊余の蔵書を高知県に寄贈するとともに、県並びに土佐市に青少年教育と文化振興のための巨額の資金を贈った。33.49493 133.42012

